ナベツネ (渡辺恒雄)の若い頃はイケメンの番記者!実家や生い立ちも紹介

Nabetsune when I was young 野球

ナベツネこと渡邉恒雄さん、最後の独裁者と球界のドンと言われています。

現在97歳となり、少しお体も心配になりますが、若い頃は凄腕の新聞記者だったとか。

今では、球界のドンとか最後の独裁者とか呼ばれていま。それまでの活躍はどの読売新聞社入社は政治部記者として頭角を現し基盤を築きながら、様々な職をこなしてきました。

現在は、読売新聞グループ本社代表取締役主筆も務めておられます。

また、読売ジャイアンツ取締役最高顧問も務めており、未だ球界にも影響力がありそうです。

ナベツネ現在はまだ生きてる?と気になったので現在の姿を調べてみました。

  • ナベツネ (渡辺恒雄)の生い立ち
  • ナベツネ (渡辺恒雄)の実家
  • ナベツネ (渡辺恒雄)の若い頃の新聞社での活躍や思想
  • ナベツネ (渡辺恒雄)の球界への影響

など、調べてみました。

渡辺恒雄のプロフィール

生年月日 1926年5月30日生まれ
年齢 97歳(2023年 現在)
出身地 東京都豊多摩郡(現在の杉並区)

家族は父・平吉、母・花 5人姉弟の3番目・長男として生まれました。

1939年4月 開成中学に入学。哲学の道を志し日々哲学書ばかりを読むようになり、反軍国少年であり、軍国主義を吹聴する校長を始め教師を襲撃しています。

旧制東京高等学校(現在の東京大学教育学部付属中等教育学校高等部)に入学します。

1945年4月 東京帝国大学文学部哲学科に進学しましたが、大東亜戦争に徴兵されています。

同年8月に終戦となり除隊となった後、3カ月ほど療養し、東大に復学し卒業、東京大学大学院に入学しました。

1950年に読売新聞社入社し、新聞記者として実績を積み上げていき、読売ジャイアンツのオーナーなど様々な仕事をこなしています。

現在の97歳のナベツネこと渡邉恒雄さんの現在の姿を記事にまとめてみました。

ナベツネはまだ生きてる現在の姿は?

渡辺恒雄の実家は資産家だった?

父親の平吉は、不動貯金銀行(現在のりそな銀行)に務めていましたが、恒雄が8歳の時に、平吉が47歳で急死しました。

玄関先で吐血し、わずか1週間での死去でした。

この時から、ナベツネさんは一家を支えるという立場になりました。

普通なら、ここで5人の子どもたちと妻が路頭に迷うところですが、稼ぎ手はいなくなったものの、11件の貸家からの家賃収入で、残された家族の生活は困らなかったということですから、相当な資産家であることが伺えますね。

ナベツネの若い頃は東大学卒の新聞記者で共産主義者?

ナベツネさんは、元々戦争にも反対であり、天皇制に嫌悪していました。

戦争が終わったら、天皇制を潰して共和国にしたいと思がありました。当時、天皇制を批判していたのが、共産党だけだったため、入党しましたが、内部に入ると考えの違いから言い争いが絶えなくなり、離党することになります。

離党というよりは除名だったようです。

これは学生時代の話で、読売新聞社に入社する頃には、共産党からは離党した後です。

勿論、政治部では何人もの総理大臣とかかわり、時代の変わり目に立ち会ってきたナベツネさんは、本当に死ぬまで記者なのかもしれませんね。

ナベツネさん、24歳の頃・読売新聞社に入社しました。

当初は読売ウィークリーを担当していましたが、政治部に異動となり、めきめきと頭角を現します。まさに高度成長期の日本の歴代首相にかかわりを持ってきたという人ですね。

安倍元首相などは、”ひよっこ”扱いしていたそうです。

戦後の復興から、日本を見続けてきたナベツネさんには、生涯記者を続けて欲しいですよね。

読売グループと野球界のドンになったのはいつから?

元々は、野球には詳しくなかったようです。「野球はやったことも、興味もない」と公言していました

球団経営参加のきっかけは、読売新聞社副社長をしているときに球団最高経営会議メンバーに選出されたことから始まります。

名誉会長であった務臺光雄(むたいみつお)氏が他界し、1周忌を過ぎたころから球界に影響を及ぼす発言が増えたといわれています。

1996年にオーナーとなり、読売新聞社と日本テレビ放送網をバックに球界に君臨することになります。

覚えている人もいるかもしれませんが、2004年プロ野球再編問題が勃発します。近鉄バッファローズとオリックスが合弁するという問題。

ダイエーホークスとライオンズの親会社の経営危機による身売り、ライブドア社長(当時、堀江貴文氏)がバッファローズの買収に名乗りを上げるなどの騒動がありました。

パリーグは、セリーグに比べあまり人気がなかったということもあり、2リーグ制を1リーグ制に変更しようという動きに対し、当時の選手会長・古田敦也氏が経営側に会談を持ちかけましたが、拒否。これに対し、ナベツネさんがインタビューに対し「無礼なことを言うな。

分をわきまえろ、たかが選手が」と発言したことに、選手のみならず猛反発されました。

こういったことから、「球界の独裁者」などと揶揄されました。

まとめ

ナベツネさんが8歳の時、銀行勤めをしていた父が他界し、恒雄は長男であったため、家族の面倒を見ることになります。11軒の貸家の家賃で生活はできたといいますから資産家ですね。

恒雄は学生の頃、共産党員でしたが考え方の違いから口論が絶えず除名となり、その後読売新聞社に入社し、政治部で活躍しました。

野球に興味もなかった恒雄ですが、読売ジャイアンツのオーナーとなり人事のみならず、球界全体への発言力を持つようになりました。97歳になった今もなお最前線にいらっしゃるようです。

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